2015年6月10日水曜日

チベットではチベットの月の暦の4月めをSAGA DUWAとしてお祝いしなかでも満月の今日はその最たる特別な日。 仏陀釈迦牟尼が悟りを開いた(僕はこの開いたという表現が凄く嫌い)日であり同時に亡くなった日。 亡くなったことも大いなる涅槃に至った(paranirvana)と表現されるが人間としての彼は世俗の表現でいえば亡くなったのである。 釈迦牟尼が超人的に表現されるようにその悟りも我々の世界から理解しえない深淵な向こう(彼岸)を垣間みられたように言われるが少しばかりその実際に触れてきた僅かながらの僕の理解で言えば以下のように思うのです。 当時も以前も現在までも、そのような言語を超越した彼岸に到り瞑想で安住し続けた(禅定=サマーディー)人は無数にいたのですが、結局そのような意識は瞑想上のことで日常の俗なる世界と彼岸の聖なる世界を二分し交互に往復するだけのことで衆生の救済はなされないと釈迦牟尼は看破されて強烈な慈悲をもってそれを越える決意で菩提樹の下に座られたわけです。 そして彼岸にいながらにして同時に世俗の現象世界をありのままに観て二世界の関所を木っ端微塵に破壊しつくしてその往復を完全に終息された。というのが僕の解釈です。 なのでただこちら側にいて絵空ごとのようにその物語をとらえ凡人には、、と躊躇することも、清らかなるというプライドと共に彼岸の清浄な世界に浸るのも、それらを越える道を示されたお釈迦様の前では罪だと感じます。 願わくばあらゆる生き物がそれらを越えて、行くことも戻ることもない平安に住しますように。 澄んだ海水に泳ぐ魚達の底に珊瑚を観るように二つを一つとして。 ”煩悩を棄てよ。瞑想を棄てよ。” ー仏陀釈迦牟尼   


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